


| 瑞光山永昌寺 | 長崎市玉園町3-60 |
| 永昌寺は、正保3年(1646)、晧臺寺伝法一祖一庭融頓が、法嗣の洲山泉益と共に創立した寺院です。 寺地は平戸道喜の別荘でしたが、その妻が喜捨したものです。 | |
| 月桂山光雲寺 | 長崎市出来大工町4 |
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伝えによると、光雲寺は本河内郷にあった行基の開創になる一乗院の末坊三千の内の1つであったといわれます。 キリシタンの隆盛によって荒廃していた寺基を、松雲宗融が復興し、正保3年(1646)に長崎奉行の許可を得て、現在の地、 出来大工町に移転したといわれます。 |
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| 徳光山高林寺 | 長崎市鳴滝1-6-27 |
| 高林寺は、正保3年(1646)一庭融頓が法嗣の天宗融察と共に、長崎奉行の許可を得て、
蘭通詞名村・猪股両氏の援助を受けて炉粕町に創建されました。明治45年、高林寺は、晧臺寺の末席である知足庵と合併し、
知足庵の地であった、現在の場所に移転されました。 |
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| 万松山国昭寺 | 熊本県天草郡北苓町志岐 |
| 国昭寺は、正保元年(1644)、天草代官鈴木重成によって創建されました。 島原・天草の乱後、キリシタン取締りのため、仏教による教化を進めました。鈴木重成によって創建され、 一庭融頓を開山とする寺院は7ヶ寺ありますが、晧臺寺の末寺になっているのは、国照寺だけです。 | |
| 福寿山大応寺 | 山口県岩国市山手町3-2-15 |
| 晧臺寺三世月舟宗林は、晧臺寺退隠後、郷里の岩国に知足庵と号する小庵を寄進されました。 その後、知足庵は荒廃しましたが、正徳5年(1715)に物現祖応が復興し、晧臺寺の末寺としました。 |
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| 経寺山龍光寺 | 大阪府大東市龍間1452 |
| 龍光寺は、敏達天皇の勅願所でしたが、荒廃衰退していました。 それを晧臺寺四世蒙山玄光が晧臺寺退隠の後、元禄3年(1690)再興し、晧臺寺の末寺としました。 | |
| 瑠璃光山妙相寺 | 長崎市本河内町2439 |
| 寛永19年(1642)に創建された今籠町の宗円寺は、本尊薬師如来が人々の尊崇を受けていましたが、 衰微し、廃寺同様になっていました。この宗円寺を延宝7年(1679)に晧臺寺五世逆流禎順が再興、 瑠璃光山妙相寺と改称し、晧臺寺末寺としました。 | |
| 天長山太平寺 | 長崎市玉園町3-60 |
| 江戸時代に水害や火災で窮乏し、維持が困難になった玖崎寺を譲り受けた浄泉院四代の盧山浙江が、 寛永3年(1750)、晧臺寺末寺として改ざん、山寺号を天長山太平寺と改称しました。 | |
| 巨福山金泉寺 | 福岡県大牟田市大字櫟野1332 |
| 廃絶しようとしていた金泉寺を、古岳日峻の法嗣俊峰智雄が再興したものです。 正式に晧臺寺の末寺となったのは寛延元年(1748)です。 |
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| 大同山慈雲寺 | 長崎県東彼杵郡波佐見町中尾郷 |
| 廃絶した晧臺寺三世月舟宗林の隠退所大同庵を、享保16年(1731)に晧臺寺十一世古岳日峻が再興、 明治12年(1879)、大同山慈雲寺と改称し、晧臺寺末寺となりました。 | |
| 金峰山玉泉寺 | 長崎県南島原市加津佐町山口 |
| 大正4年(1915)、加津佐の栗原喜久馬の妻イシが夫の菩提追善のため、一寺を建立しましたが、
当時の宗制では同一地域内に新寺建立は認められなかったため、晧臺寺の末庵の一つ望江庵の名称を譲り受けました。 翌年、加津佐に移転し、金剛山玉泉寺と改称され、晧臺寺の末寺になりました。 |
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| 隆照山連燈寺 | 長崎県佐世保市宇久町平郷 |
| 延宝3年(1675)、晧臺寺五世逆流禎順が墓地並びに歴代住職墓監護のために創建した聯燈院を、 大正9年(1920)、連燈寺と改称し、寺院に昇格しました。 | |
| 大龍山泰三寺 | 長崎市曙町30-3 |
| 大正9年(1920)、晧臺寺副寺の新発田漢三は、
晧臺寺二十七世霖玉仙の援助を受けて晧臺寺稲佐説教所を開創しました。 昭和6年(1931)、現在の地に移転、 昭和15年(1940)、曹洞宗稲佐教会として認可されたのち、昭和20年(1945)、 寺号を大龍山泰三寺と公称し、法地寺院に昇格しました。 |
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| 玖島山禅心寺 | 大村市玖島3-571-28 |
| 昭和62年(1987)晧臺寺大村布教所「海雲精舎」として発足、 平成元年(1989)、宗教法人禅心寺として独立寺院となり、晧臺寺末寺になりました。 | |
